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2012-04-01 (日) | 編集 |
ざわ・・
  ざわ・・
第5回長野マラソン
 本日は富士五湖117キロウルトラマラソンに続く春のマラソン大会第2戦の長野マラソン。今回は立山登山マラニックへ挑戦するために4時間以内で走らなければならない重要な一戦(注1)。
 私のこれまでに取ってきた練習方法は週に1回くらいのペースで、ゆっくりでも良いからなるべく長い距離を走る、言わばウルトラマラソン向けと呼ばれる練習方法である。3ヶ月で290キロを走り込んでいるが、およそ週1のペース。自分としてもかなり走り込んだ積もりで、サブフォー(注2)はあっさり達成できる自信がある。
 しかし、ランナーの意見は違った。それによると、距離はこなしているけど練習回数が少な過ぎる。それでは4時間は切れないよ!との事だった。どうやらフルマラソンでのタイム短縮の為の練習方法は、距離は長くなくても良いから毎日走る方が効果的であるらしい。まぁ、そんな事を言われても私はサブフォーを激しく確信していたのだが。

 天気予報通り早朝から雨。スタート地点へ乗り込んでも雨で、おまけにスタート時間まで2時間もあり少々鬱。タバコを吸ったり、用を足したりと何とか時間を潰し、やっと9時5分にスタート。今回、ウエストポーチにデジカメと携帯を装備して走ろうと思っていたが雨のため取り止め。直前になってゴール行きの荷物と一緒に預けた。幸いスタート直前になって雨は止んでくれて、ゴミ袋に穴を開けて即席合羽にしていた簡易雨具を取る。ドカン!ドンドン!と威勢良く花火が上がり周りのボランティアの人々や関係者や応援の人の大声援に見送られてスタート。いよいよ第5回長野マラソンが始まった。始めの5キロは標高差180mの緩やかな下り。下りは気を付けないといけないが、しかし、標高差が1000mもありその中で強烈なアップダウンが常に連続する野辺山100キロウルトラマラソンを想定して練習を積んでいる。もちろんここで飛ばしても平坦42キロでは止まらない自信がある。4時間以内で完走するには私の通常ペースである10キロ1時間ペースでは最後の2.195キロが足りず、どこかでタイムを短縮する必要があり、仕掛けるのはココだと思っていた。

 前日までの暴飲暴食と不摂生が祟って体が重いが、下りなのでペースは悪くない。悪天候(この時点ではごく小雨)にも関わらず沿道にはいつものように沢山の応援があって、さすがは長野マラソン。『あとチョットだぞ~!』などと言う応援もご愛嬌で微笑ましい。10キロは56分ほど(実際はスタートまで2分くらい掛かっているから54分か)で、自分としては50分くらいだと思っていので少しガックリ。でも、このペースで40キロまで走ればサブフォー確定だと気を引き締める。小雨は上がったものの湿度があって蒸し暑い感じで汗が噴出してくる。そろそろエンジンが掛かっても良い頃なのに、まだ体が重く走る事が苦痛。それでも順調に走り、タイガーマスクの覆面ランナーと抜きつ抜かれつのバトルを繰り返しながら15キロを通過し小布施橋を渡りきり堤防道路へと突入する。土手の上は風も無くて快適。何時の間にか雨もあがって晴れ間が広がって来ていた。応援の方も相変わらず素晴らしく、並走しているタイガーマスク野郎に全部持っていかれてしまっている感があるけど『あぁ、今年も長野マラソンを走っているんだ!』と言う思いが沸いて来たりもする。

 17キロ付近で両膝の関節がきしみ出した。場所が場所なだけに何となく嫌な感じもするが、膝全体がきしむ程度で膝痛でもなかったから、最初の下りで飛ばし過ぎたのかな?くらいに思ってあまり気にせずにいた。しかし、しばらくして右ひざの外側にピィーンと痛みを感じた時、瞬時に絶望的な気分におちいった。最も恐れていた事態が起こってしまった。一体、何が起こったと言うのかっ?などとほざいたヤツには激しい怒りを込めてこう叫びたい。『膝痛だよ、ごるぁ!』と。徐々に痛みを増してくる膝に絶望を抱きながら、昨年、単なるお祭りピクニックにしか思っていなかった日本山岳耐久レースでまさかの大敗北を喫した時の事を思い出していた。この右ひざ痛はあの時と全く同じ膝の外側。やがて走れなくなる時が必ずくる・・。

 思い当たる節がない訳でもない。最初の下りで飛ばしてしまった事、サブフォーのペースで一度も練習しなかった事、膝対策を何も取らなかった事だ。最初の下りをなめて飛ばし、経験した事のないペースで走ってくれば予想以上に膝に負担が掛かっているのかも知れなかった。CW-X(注3)はともかく、ひざかんたん(膝のテーピング)を施さなかった事も悔やまれた。ただ、たった20キロで、が解せない。それに膝の外側は筋肉が疲労して垂れる事によって痛みが生ずるハズで、あれしきの坂とは言えない緩やかな坂程度で今の私の体が疲労するとは思えない。まだたったの20キロしか走っていないのだ。色々考えてみたがやはり原因がわからない。バチが当たったとしか言いようがない。お前のような日頃の行いの悪いすっとぼけ野郎には完走させないぞ!とマラソンの神様が怒っているのかもしれなかった。一体、どうなってしまうのかっ?などと聞いてきたヤツには脳天かかと落しを繰り出しながらこう叫びたい。『リタイアだよ、ヴォケ!』と。

 もうサブフォーは頭になかった。そしてやはり、リタイアを激しく直感した。20キロ地点には収容バスが待機されている。まさかお世話になるとは夢にも思わなかったが、怪我なら仕方ない。この膝痛ではどう頑張ってももはや時間内完走は不可能。サブフォーの夢が絶たれた今、もはや長野マラソンを頑張る必要もない。それにこれ以上無理をしたら膝が完全に壊れて取り返しの付かない事態になるかも知れない。目標はあくまで野辺山ひゃっきろの撃破。私は先のある身。ココで潰れるわけには行かないのだ。頑張る事は大切だけど、時には引く事も必要なんだ。しかしバスには乗れなかった。と言って前に進む事を選択した訳でもないのだが。ハーフポイントの少し前でとうとう我慢出来ずに止まった。無意味だとはわかっていてもストレッチで膝をほぐす。膝を曲げると関節はバキバキ。再び走ろうとすると更に膝が痛くなった。やるんじゃなかったと後悔する。

 右足を引きずり気味にしてなるべく負担が掛からないように走るが、踏み出す度に、着地させる度に激痛が走る。歩いたり走ったりを繰り返し何とか24キロの給水ポイント(以下エイドと表記)まで来た。もしかしたら良くなるんじゃないか?と儚い希望を抱きつつ、アクエリアスを5杯ほど飲み、バナナを10切れほどを食べて回復を願う。バナナポイントに陣取り鼻息を荒めたゴリラの如くバクバク食べていると『オイ、マッケン!』と名前を呼ばれた。へ?っと振り返るとトシさん(当フレンドコーナー2に登場)が家族で応援に来ている様子。膝痛で危うい事情を話すと『シューやるか?シュー』っと筋肉冷却スプレーを取り出してくれた。『いやぁ~、筋肉は全然大丈夫なんスけど、これは関節の痛みっスから』と言うと、『関係ねぇよ!これはなぁ、おめー、関節にも効くんだよ!』と膝にかけてもらいました。すこし元気になって、頑張ります!と再び走り出す。

 長かった堤防道路が終わり、エムウェーブへと向かう屋島橋のアップダウンのちょっとした下りでまた止まってしまい、下りの重大さと足に掛かる負荷の大きさを痛感。25キロは2時間35分台で通過したものの、この状況と残りの距離と残された時間を考えると絶望感に打ちひしがられる思いがした。ダメだ。どうあがいてもゴールまでは辿り着けん。絶望的な諦めムードが漂っていて、何度もリタイアが頭を過ぎりその度に自分自身と激しく葛藤した。あぁ・・俺は本当にリタイアするのか?サバイバル野郎に再び返り咲くこのオレ様にそんな事が許されるのか?たとえ今、リタイアしなくてもこの先の関門で間違いなく引っかかるだろう。それでも私はゴールを目指せるのか?簡単すぎて練習の足しにもならないと言い切った、この『へ』とも思っていなかった平坦42キロの長野マラソンでサブフォーで走れないのみならず、完走すら出来ずに終わって良いのか?オイ、どうなんだ、不死身の怪物マッケンよ。

 激しく葛藤しながらエムウェーブへと突入。エムウェーブの入り口に救護と書かれたテントを発見。おおっと駆け込む。筋肉冷却スプレーを借りてシュとスプレー。テーピングをもらって膝に巻いていると、そんなにきつく締めたらダメだよとココの責任者らしいボランティアのオッチャン。こっちに伸縮テープがあるからコレにしなさい。おい君、これを巻いてあげなさいと隣のおねぇさんに指図。おねぇさんは慣れない手付きでテープを巻こうとする。しかし、汗と冷却スプレーでテープが貼り付かない。すると、何と言う事か!おねぇさんは自分の首に掛けていたタオルで私の膝を拭いてから丁寧にテープを巻いてくれた。これで頑張って下さい!と。私は激しい衝撃を覚えた。見るからに汚そうな私の足を何の躊躇もなく自分のタオルで拭いてくれたこの心優しきボランティアの女性に心の底から感謝した。感動で胸がいっぱいになった。ありがとう。本当にありがとう。私は最後まで絶対に諦めない。君の為に絶対に完走すると心に誓い、お礼を言って再び走り出した。

 正直なところ、テーピングをするには時既に遅く、効果があるとは思えなかったが、これ以上ない気休めにはなった。あの娘の誠意に答える為にも、体がどうなろうとも絶対にゴールへ辿り着くんだ。華やかな応援を受けエムウェーブを周回し出口のエイドでスポンジをもらい膝を冷やす。何時の間にか空は晴れ渡りカンカン照りの天気。ったく今日は終日雨のはずなのに何でこんなに晴れるんだ。今は雨の方が有り難いんだよ、ごるぁ。やはり膝の痛みは激烈でまともには走れなかった。チョット走っては歩きを繰り返し前へと進む。27キロのいつもの(過去4回中2回)場所でおばあちゃんと親戚のおばさんが応援してくれていた。父さんは少し前にいるよ。痙攣が起きて大変だって!と聞かされる。遥か前を進んでいると思っていた親父が意外にも痙攣で苦戦し、すぐ前を走っているらしい。そうか、今年は親子共々てこずっているのか。

 五輪大橋手前のエイドで再びバナナを補給し、大きいタルに用意された水を柄杓ですくってドカドカと膝に掛け十分に冷やしてから、橋への上りに掛かる。全然大した事もない上りなのに走れない。いや、歩く事すらも苦痛。再び歩いたり走ったりを繰り返し橋の料金所の29.8キロ関門を越え、やっと30キロ地点に辿り着いた。3時間20分。くそっ、信じられん展開だ。信じられんほどてこずっている。いよいよ窮地に陥った。この先は残り時間との闘いになる。全く持って信じられん。十分に稽古を積み平坦42キロでは筋肉痛にすらならない状態にある、仮にもウルトラランナー(ウルトラマラソン完走者)のこの俺が練習の足しにもなりゃしねぇようなフルマラソンで制限時間を気にしているだとぉ。絶望的な痛みに苦戦を強いられ、完走すら危ういだなんて何なんだよこれは。『ふざけんじゃねーぞ。ごるぁ』。少々ふざけた表記だが、私は真剣にそう思っていた。あと12キロを1時間40分か。

 五輪大橋たもとのいつもの場所には母がいてパシャっと写真を撮っている。どうやら私のトレードマークのオレンジのキャップで直ぐに私とわかったらしい。『ゴメン。膝痛でこのザマさ』『完走も厳しいよ』と報告。母からも親父は直ぐ先をヨレヨレになって進んでいると報告を受けた。今年の我が一族はどちらも思わぬ苦戦を強いられているらしい。まぁあの怪物親父の事だ。それでも完走するから心配は要らないよと心配そうな母を逆に応援する。31キロを通過し、この先にある32.5キロ地点の折り返しまでの長い事。左に折り返しのランナーを眺めながら親父の姿を探し、そして隙あらばズル(折り返し地点まで行かないで途中でドサクサに紛れて引き返しの列に混ざり込むインチキ)をしようとチャンスを伺う。交差点には警官がいて、そして中央分離帯の切れ目にはしっかり係員が立って不正を見張っている。仕方なく折り返しまで行くと、母が先回りしたらしくまた写真を撮られた。今年は親子で似たようなタイムで走っているから応援する方も楽との事らしい。

 空は再び雨雲に覆われ、今度は大粒の雨がパラパラと降ってきた。33キロを通過した所で道路脇の縁石に腰を下ろして小休止。ちょっとドクが欲しい気分。足の筋肉は全く大丈夫だが膝は信じられないくらいガタが来ている。右足をかばいながらの為か、左膝もダメージを受けた感じで膝の内側にも痛みがある。もうココまで痛めてしまった以上、今さらリタイアしても同じだろう。それなら行き着く所まで行くしかねぇな。テーピングが少しずれていたので貼り直し、完走への意欲を再び燃やし長野マラソン撃破に向け雨の中走り出した。最初に降り出した雨は大粒でこれから激しい豪雨になると思っていたが、降り出してみたらそれほどでもない。道には水溜りが出来ているが、もちろん避けて走る余裕はない。また、それは周りのランナーも同じで、さすがにこの時間でココ走っている人にはそんな余裕はないのであろう。皆必死であった。

 34キロ地点ホワイトリングのエイドで水分を補給しここが最後の正念場と自分に言い聞かす。一度でも歩いたら完走はないぞ!と二度と歩かない覚悟を決めて走り出した。再び千曲川の土手に上って35キロを通過する。ちょうど13時5分。残り7キロ少々を1時間。非常に微妙なタイムだがまだ可能性はある。更埴橋を渡りながら、昨夜の消防活動での出来事を思い出す。更埴橋はいつ頃通過?と聞かれて、あそこは36キロ地点だから遅くとも12時半までには通過します!などと自信を持って答えた事を・・。おまけに、おめぇは松代第4分団の看板背負っているんだから今日はもう帰って早く休めや!その代わり頑張れよ!っと昨日の23時には家に帰してくれた分団長。そして松4の消防野郎の皆。ゴメン。40分遅れで今やっと着いたよ。

 更埴橋を渡るといよいよ地元の松代町。走りなれたいつもの練習場所の土手に少し気が楽になる。年々減少しつつあるこの土手の応援も今年は雨の為か、ことさら寂しく映る。それでも毎年応援してくれている親戚のオッチャンを発見し、雨の中をありがとう!と嬉しくなって手を振って答える。37キロを通過し最後のバナナ(給食)エイドへ通りかかる。34キロ過ぎから一度も止まらずに走ってきたリズムを崩すのが怖く、ココで止まったら二度と走れないかも(私は走りながら水分・食べ物を補給するような器用な真似は出来ないから必ず立ち止って補給する)、と不安があり、素通りしようかと激しく悩んだが、食い意地には勝てずにバナナに引き寄せられてしまった。ワクワクしながらバナナへ吸い寄せられて行くと2切れしか残っていなかった。しかも酸化して変色している。ひぃ~っと思いながらもしっかり2個をゲット。あら、ゴメンね。今新しいバナナを出すからねとボランティアのおばちゃん。ありがとオバチャン。でも良いんすよ!ボクは残飯処理係ですからぁ!おごっつぉーさん!と礼を言って走り出す。

 走り出しはやはり激痛を伴ったが歯を食いしばって踏み出したら何とか耐えられた。37.195キロからいよいよ残りのキロ数を表示するカウントダウンが始まった。後5キロだ。するとチンタラ歩いている諦めムードをプンプン匂わせた2人組の小僧どもからこんな話が聞こえてきた。なぁ、もう完走は無理だよなぁ?ウン、残り45分で5キロは無理だね・・。それが今まさに頑張って走っているランナーに向けて発せられた言葉の様に感じ、ちょっとカチーンと来てクラシツケテやりたい衝動に駆られる。オイ小僧ども、ンなコタぁやってみなきゃわからねぇんだよ!とつぶやいてみたが少年達に届いたかどうかはわからなかった。

 さて、しかし、やはり厳しい状況に変わりはない。太鼓の応援が数多くある長野マラソンにあって、唯一第1回から太鼓を叩き続け(しかもそれが終盤だから本当に頭が下がります)、威勢の良いゲキを飛ばしてくれる蛭川水門の親父の友人であるオッチャンの熱い太鼓に励まされ、松代大橋の下のアップダウンを悲鳴を上げながら走り抜け、旧西寺尾橋の38キロを通過する。てっきりココが最終関門(第2回大会での敗退場所・第3回大会では封鎖10秒前にギリギリ通過)だと思っていたが、今年から違うらしい。最終関門がもっと先になったとしたら、関門ギリギリランナーには酷な変更だなぁと思った。土手を左に折れ、何て事もない様な土手からの緩い下りでまたひぃーひぃー悲鳴を上げつつも止まらずに走り、長野インターチェンジ前で残り4キロ。更に走り続け松代大橋へと突入。雨が小降りになってきたところで39キロ。34キロ過ぎからド根性でココまで走ってきた甲斐もあって、幾度となく絶望を味わされてきた奇跡とも言える時間内完走が現実になりつつある事を実感。だんだん嬉しくなってきた。しかしまだ油断は出来ず、歩いたらアウトだが、最大の正念場を乗り切った充実感がジワジワ込み上げてくる。

 最後の下りとなる橋の下りで再び悲鳴を上げ、最終コーナーを立ち上がり最後の直線へ。残り3キロ。そこでまたしても先回りして母が応援してくれている。『よぅ!ありがとうぉ』『何とか完走出来そうだよ!』今度は私もニッコリ笑って写真を撮ってもらった。最終収容関門は39.8キロとなっており、それを越えるといよいよ40キロ。そして残り25分を残し、あと2キロのプラカードを通過。いよいよ絶対安全圏へ突入したと思った。つまり、この先は全て歩いたとしても完走当確圏内。完走を確信しすっかりゴキゲンになって、よし、ここからは歩いちゃおうかなっと思った。雨と汗で左膝のテーピングは半分剥がれてしまっている事に気付き、止まって貼り直したのを機に歩きだした。オリンピックスタジアムが近づく。

 しかし、完走が確実なモノとなってもこのまま歩いたままゴールする事は躊躇われた。全力でぶつかる事に意義がある。自分の持てる力の全てを出しつくし、完全燃焼してこその挑戦だ。地獄の苦しみを味わおうとも、走れるのなら走らなければならない。『よし、いっちょうやったるか』。沿道を埋め尽くした応援を背に再び走り出した。膝のテーピングは剥がれてブラブラとみっともなかったが、取ってしまう事は出来なかった。そのおかげでココまで来れたのだ。心優しきあの娘のおかげで。オリンピックスタジアムへと入る最期の曲がり角を曲がった。沿道一杯の応援を受けスタジアムへと入る。通路を抜け、大観衆が詰め掛けたオリンピックスタジアムへ入るとゴールを目に捉えた。すると目に涙が込み上げてきた。長かった。本当に辛かった。かつて無い地獄の苦しみを味わった。だが、私は最期まで挫けずにココまで来たのだ。いや、これたのだ。俺はやったんだ。私は溢れ出る泪をこぼさない様にゴールテープを切った

専門用語の解説

注1:立山登山マラニック 海抜0mの富山湾から立山山頂まで、距離65キロ・標高差3003mの大会。その出場資格には登山経験とフルマラソン4時間以内があり、完走難度は日本一過酷な富士登山競走に匹敵するほど言われる。
注2:サブフォー フルマラソンを4時間を切って走る事。らしい。
注3:CW-X ワコールの足の筋肉・関節をサポートするタイツ。関節を保護し、筋肉疲労を激減させ、また運動後の疲労も抑える。その効果は絶大であると無しでは雲泥の差が出る。
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これは、読んだことがあります
このブログかどうか忘れましたが、これは読んだことありますね。完走できたきっかけのボランティアの女性は多分、派遣ナースですね…私もカーレースやお祭り、修学旅行、スポーツ大会などテントの下で待機の仕事したことあります。テーピングが下手なのは病院ではテーピングなんてしないからです。最近は毎年六甲縦走で最後尾のボランティアですが、参加者が足を挫いたりされたら三角巾で固定とか、ほかのおじさん達にしてもらいます。私が役立つのは女性参加者が具合悪くなって倒れてたら、おっちゃんより私が服を緩めたりする時だけです…
2016/09/03(Sat) 04:06 | URL  | マロン #-[ 編集]
こんばんは
いつもありがとうございます。
ほとんどの大会はボランティアの皆さんのご厚意で成り立っていますから、本当に頭が下がります。
特にマロンさんのように医療の心得があって、気配り出来る女性がいらっしゃると、女性参加者にとっても心強いでしょうし、運営側も有難いですね。更にマロンさんの場合は山で行われる大会のスイーパーですから、実力を兼ね揃えた大役でございますね。
2016/09/05(Mon) 21:48 | URL  | countryboy #-[ 編集]
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